マウンテンビュー・トレイル
8月14日火曜日。昨晩の雨もあがり、シャレーのテラスから見える空は晴れ。テラスから身を乗り出して、左手にあるアイガーを確認するには、逆光に目を細めないといけない。
シャワーを浴びたら、本館にあるダイニングへ。昨晩のレストランとはレセプションを挟んだ反対側にある。
既に2組が静かにハムやチーズにナイフを立てている。部屋番号のプレートが置かれたテーブルに腰掛けると、柔らかな笑顔でオーナーのラルフさんがやってくる。
「グーテンモルゲン!コーヒー オア ティー?」
コーヒーを選ぶ。泡立てられたミルクをたっぷり注いでくれる。これが、普段あまりコーヒーを飲まない私でもお代わりしてしまう美味しさ。
美しいアルプスを毎日見ながら広々とした牧場に放牧された牛。その乳はおいしいに決まっている。
数種類のパン、ハムとサラミ、チーズ、ヨーグルトとジャム、それにオレンジジュースと牛乳。それと、最後にゆで卵・・・が無いっ!そもそも、ゆで卵が入っているはずの籠が置かれていないじゃないか!
・・・と思ったら、卵の入った篭をひじに下げたハイジさんがやってきた。しかし、茹でたてで熱く、すぐにはつかめない。何を隠そう、私は猫舌なうえに猫指でもある。でも、風呂は熱いのが好き。
慣れない手付きでエッグスタンドを使い、ゆで卵を食す。優雅な気分。卵も旨い。
コレステロールを気にせず、ふたつ目を食べる。この意地汚さは優雅とは呼べない。
最後に、ハムとチーズとパンでサンドイッチを作って紙ナプキンで包み、さらに、ゆで卵を2個をポケットに忍ばせる。これでトレッキング中のランチもバッチリ。
やってる事はかなり貧乏くさく、とても「優雅」とは言えんな。もちろん、日本人の恥にならぬよう、他のテーブルから見えない位置で作業をする。
部屋に戻って身支度を整えたら出発。アルメントフーベル行きのケーブルカー乗り場はシャレーから僅か20秒ほど。
でも、ミューレンの朝の空気を楽しむべく、少し遠回りして、ブルメンタルの向かいのCOOPの店先を覗いたり、郵便局のベンチに腰掛けたり、水飲み場で手を濡らしたりしてから、ケーブルカー乗り場へと向かう。
ケーブルカーの乗客は全部でたった5組。西洋人のおばあちゃんばかりの4人組、同じく西洋人の中高年夫婦、マウンテンバイクを持った青年、幼い子供連れの日本人家族、そして我々。
ケーブルカーが動き出すと、小さなミューレンはたちまち小さくなり、代わりに村の向こうに黒い絶壁を見せて聳え立つシュバルツメンヒの上から、白いユングフラウが顔をのぞかせる。
たちまちアルメントフーベルに到着。
山々を見渡すベンチに陣取り、手をつなぐアイガー、メンヒ、ユングフラウと向き合う。
やあ!また会えたましたね。
太陽が真正面にあって眩しいが、真夏の暑さはない。昨晩の雨で、まだ足元の芝は湿った感じ。谷からあがってくる風は涼しく、牧場の匂いを運んで来てくれる。
マウンテンバイクの青年の姿はとっくになく、日本人家族は近くにある滑り台で遊んでいる。中高年夫婦は少し離れたベンチに我々同様に腰掛け、驚いたことにおばあさん達は全員がどでかいレンズの一眼レフカメラを構え、盛んにシャッターを切っている。
ここアルメントフーベルからはいくつものトレッキングコースが伸びている。今回、我々が選んだのはそのなかのひとつ「マウンテンビュートレイル」。
ここか らミューレンの背後にある山の中腹あたりをトラバースし、最後はラウターブルンネンからの新しいロープウェイが着くグリュッチュアルプまでのコース。ガイ ドブックによると、ずっとベルナー三山を見ながらの約2時間コース。中級向け。
最初は、山々に背を向けての軽い上り。途中までは他のルートと同じ道を行くが、幾つか分岐を過ぎるうちに、右手は雄大なベルナー三山を眺めつつ歩けるなだ らかな下りルートになる。
小さな沢の水に手を付けたり、可憐な花をカメラに収めたりしながらのんびりと歩く。
陽射しが強くなってきた。ところどころにある ベンチに座り、景色を見ながら水分補給。
「グリュエッサー」
は、この地域での挨拶。
あまり歩く人のいない静かなコースなので、反対方向から登ってくるパーティーとすれ違うことも少ない。逆に、こっちの人達は歩くスピードが速いうえに、我々がかなりスローペースなせいもあって、追い抜かれることの方が多い。
静かな空に、突如、ドーンという大きな音が響いた。
その方向に目を向けると、ユングフラウの山裾あたりから雪煙りのようなものが沸き立っている。
ひょっとして、今のは氷河が崩れ落ちる音?
初めて見た・・・というか、あそこからは何kmか離れているから、音がしてから振り向いたのでは崩れ落ちる瞬間を見た訳ではないのだけれど。
去年もずいぶん何日間も山にいたのに、氷河が崩れるのを見ることは一度もなかったな。
もっとも、今日と違って人が多くて賑やかなコースが多かったから、ただ単にその音に気が付かなかっただけなのかも知れない。
岩の上にカメラを置いてセルフタイマーをセットしていたら元気なおばあちゃんのグループに追い付かれた。お年寄りが元気なのは、どこの国も一緒らしい。
「写真?待ってな、今、甥っ子に撮らせるから」
元気なおばあちゃんなかのひとりが手招きした方を見る。少し遅れてやってきたのは、40歳がらみの男性。どことなく不承不承連れて来られた感じが漂うその表情、その立ち姿、そしてその動作。この元気なおばあちゃん集団の中で若い(?)男ひとり。まあ、気持ちは分からないでも無いけどね。
その彼がカメラマンになってくれる。
それにしても、写真一枚撮るにも、賑やかなおばあちゃん達にあれこれ言われている甥っ子さん。お気の毒に・・・。
さて、御礼に今度がはこちらがカメラマンになってあげる番。はい、皆さん並んで並んで。
う~む、これは・・・。
アルプスの白き山々を背に、白く輝く入れ歯をむき出して大きくスマイルするおばあちゃん達・・・。すごい画だなあ。
谷の向こうにあるメンリッヒェン、ラウバーホルンなどの山並を見ながら歩く。
幾つか沢があり、軽くアップダウ ンを繰り返しす。時折、アイガーやユングフラウは丘の向こうに姿を隠す。
その時、再び「ドーン」という音。ちょうど手前の丘の影になっていたので見えないが、ま た、氷河が崩れたらしい。こんなに何度も出くわすのは運が良いのか?それとも地球温暖化のせいなのか?
カウベルの音が近付いてきた。しばらく行くと、白と茶色をした牛の群れのなかに突入。
我々の行く手は彼らに遮られている・・・というか、我々が放牧地のなかにお邪魔しているのだからしかたない。
大きな体だし、角も生えてあるので若干ビビりながら近付いて行く我々。でも、実は彼らの方で微妙に距離を置いてくれる。
でも、親牛たちと違って仔牛たちは好奇心旺盛。案外、あちらから近寄ってくる。ういやつじゃ。
その頭や首を撫でてやると、喜んでいるのかどうかはよく分からないが、舌を伸ばして手をなめてくる仔牛たち。
牛の唇は唾液でヌルッとしているが、舌はかなりザラザラとしていて、まるでヤスリのよう。あとになって、なんだか手の平が擦りむいたみたいにヒリヒリしてくる。
後日、知ったことだが、奴らは人間の手の平にある塩分を舐めているんだそうな。
ヴィンターエック
谷の向こう側にヴェンゲンの村を見ながら進み、次の分岐点でグリュッチアルプの方面に下って行く。だんだんと坂は急になり、道はつづら折りに。
結構キツイ。さっきのおばあさん達はこのルート大丈夫か?
やがて、線路沿いの道に合流。腹も減ったし、喉も渇いた。グリュッチアルプ駅で飯にしよう。
左に進むとすぐにグリュッチュアルプ駅が見えてきた。でも、駅の周囲は雑木林で、あまり眺望が効かない感じ。そこで、少し歩くことになるが、グリュッチュアルプとミューレンの中間にあるヴィンターエック駅まで戻るにする。
これまでとは逆に、今度は山々を左に見ながらよく整備された道を歩く。乳母車を押している人もいる。
ヴィンターエック駅には小さなレストランがあり、日当たりの良いテラス席からはアイガー・メンヒ・ユングフラウを見渡せる。ちょうどランチタイムということもあって、ほぼ満席の大賑わい。
ようやく空席を見つけ、ビールをオーダー。我々はホテルの朝食をちょろまかして作ったお弁当を食べるつもりだったのだが、周りのテーブルは結構ガッツリと食事をしている。
席がガラ空きであれば、テラスの隅っこの方で、ベンチ代わりに座ってます・・・という感じをさせながら、ちょこっとお弁当を食べるくらいは許されそうだが、いかんせん満席。とてもじゃないが、そんな貧乏臭いことをする雰囲気じゃない。
とりあえずビールだけ堪能したらレストランを出て、線路脇の道にあるベンチに移動。ここからだと、アイガー・メンヒ・ユングフラウを遮るものも無くてなかなか良い。
水筒のジュースとサンドイッチにゆで卵。そして、昨日ベルンで買ったリンゴ噛る。これぞ正統なハイキングのランチスタイル♪
ヴィンターエックからミューレンまで、ひと駅だけBLM(ラウターブルンネン・ミューレン山岳鉄道)に乗る。
一両だけの客車が小さな貨車を引っ張ってホームに入ってくる。車内は結構な混雑。
電車は崖っぷちを走り、あっという間にミューレンに到着。人の波に押されて駅前広場にでる。あらら、無賃乗車してしまった。車内で切符買うんじゃないのか・・・。でも、ヴィンターエック駅に切符売場なんてあったかな?
一旦、部屋に戻ることにする。その前に、シャレーの裏手にある時計屋を覗いてみるが、やっぱり閉まっている。ベルンで買った腕時計のベルトを調整して貰いたかったのだが・・・。
部屋に戻ってシャワーを浴びたら、COOPでビールを買ってきて一杯。
そして昼寝。
あこはバルコニーのテーブルで、ベルンで買った絵葉書にペンを走らせている。今回の旅は、あんまり頑張り過ぎないというのもテーマのひとつ。たまにはこういうのも悪くない。
猫と歩く
1時間ほど昼寝したら、再び出発。時刻は午後3時過ぎたところ。
ロープウェイ駅に向かう途中からギンメルワルトに方向に折れる。花に彩られた窓や庭先をながめつつ、シャレーの間を縫う階段を下って行く。
上の道のようなホテルは無く、普通の住居がほとんど。たまに小さなペンションらしいのや、貸し別荘のようなものがあったりする。
集落を抜けると、シュバルツメンヒを目の前に見上げながら、急傾斜した牧草地のなかのアスファルト道を下って行く。
つづら折りになった坂の途中のベンチのあるところで、一匹の猫がこっちを見ている。
飼い猫っぽくない感じだが、かといってスイスのこんな山の上で野良生活が成り立つとも思えない。
毛はふさふさしとしているが、抱き上げてみると体は案外痩せている。どちらにしても、何となく懐いてくるのはお腹が空いているからも知れない。
でも、あいにく何にも食べ物持ってないんだよ・・・ゴメン。じゃあな。
あれれ?ついて来ちゃったよ。
しばらくは、猫と一緒に坂を下って行く。辺りに人家はなく、倉庫かチーズ小屋のような小さな建物が点在している。こいつの棲家はあのあたりかな?
200mほどお供に連れて歩くいたものの、気まぐれな猫は何の前触れも無しに急に方向転換して深い牧草の中へスッと入って行ってしまい、それっきり姿は見えなくなってしまった。
もしかしたら、また猫がついて来てるんではないか?と時々うしろを振り返りながら、アスファルトの道を下っていく。でも、やっぱり現れない。
時刻は午後4時過ぎ。
空はまだまだ明るいが、ギンメルワルトに近づくにつれてだんだんと日陰に入り、徐々に涼しげな空気に包まれてくる。道端の石垣にもコケなどが少し生えている。
荷台からこぼれ落ちそうなほどに干草を積んで、下からトラックが上がってくる。道幅一杯なので、石垣にへばりつく様にしてやり過ごす。
ドライバーは、いかにもスイスの山間に住む農夫といった感じのおじさんで、ひげ面にくわえタバコ。淡いオレンジのオーバーオールに同じ色の帽子をかぶっている。
こうゆう業務用の車両は入ってきてもいいらしい。そう言えば、一昨日の夕方も山の中腹でジープとすれ違ったっけ。ミューレンに来て以来、自動車はこの2台しか見ていない。
頭上をシルトホルン・バーンのロープウェイが通り過ぎて行く。もうすぐギンメルワルト。20軒に満たないような小さな集落が崖っぷちにへばりついている。
時が止まったように静かな村のなかの小道を行く。他のスイスの村と同じ用に庭や窓まどが花に彩られている。
すぐにロープウェイ駅前にでた。隣接した水呑み場があるだけの小さな公園に人の姿はない。
その脇の納屋にマウンテンバイクが何台か立て掛けられている。納屋の戸口に付けられた看板には、ここがツーリストに寝床だけ提供する施設だということが書かれている。
価格は2スイスフラン。北海道によくあるライダーハウスみたいなものだろうが、それよりもかなりワイルドな作り。外観は完全に納屋で、窓も小さい。ベッドなんかないだろう。藁の上にシュラフで寝るのではなかろうか?
納屋と通りを挟んだ反対側は少し小高くなっており、そこにはユース・ホステルらしき建物がある。
大きくて古びたその建物の前庭には、丸太で出来たテーブルと椅子。建物を背にしてシュバルツメンヒやシュテフェルベルクの谷の奥を見下ろす方向は、木の柵と背の高い椅子が、さながらバーカウンターの様になっていて、山々を眺める特等席になっている。
よじ登るようにしてそこに座る。足をブラブラとさせると、重たいトレッキングシューズのおかげで関節が伸びる感じになって、一日歩いた膝と足首に気持ちよい。
すぐそばの背の低い木では小鳥がなにやら実をついばんでいる。陽は山の向こうに隠れ、徐々に雲が増えてきたせいでヒンヤリとしてきた。目の前の流れ落ちる幾筋もの滝が音が耳に心地よい。
ユース・ホステルの玄関前では、裸足で髭面の若者がビール片手にシュラフを広げて乾燥させている。
2階の小さなテラスでカードゲームをする若者が2人。室内は暗いのか、窓辺で本を開く女性。
建物の脇にある勝手口の所には洗濯干し場と、大きな桶のような露天風呂。ユース・ホステルに泊まりながら北海道を巡った学生時代を思い出す。若いって羨ましい。
ふと時計をみると、もう30分以上もここでボーっとしていたようだ。なんだか体が冷えてきた。ロープウェイでミューレンに戻る。午後6時過ぎ、ブルメンタル着。
いいレストラン
夕食。オーナーのラルフさんが、我々を昨日と同じ席に案内する。やはりミスターはいない。その代わりに去年もいた「マリオ」の姿が見える。
ビールにワインにサラダ。そしてスイスの郷土料理をオーダー。
まずは、羊のステーキ。添えられたフレンチポテトは食べ放題・・・ではないのかも知れないが、テーブルが少しでも寂しくなってくると、カートの大皿に山盛りなったのから取り分けてくれる。
もう1品はロスティ。チーズ味のジャガイモを千切りにしたもの。添えられた薄切り牛肉のシチューのようなのはゲシュネッツェルテス。全体的に少し塩辛いが、酒のツマミには悪くない。
隣のテーブルは若い白人カップル。オーストリア人だそうだ。揺れるキャンドルの炎を挟んで向かい会い、静かに談笑するさまは、なかなか素敵。聞き間違いでなければ、彼女はオペラの舞台に立っているらしい。逆に、我々はどう見えるのやら。やっぱり、滑稽に見えてるのかな?
彼の方は、私の傍らに置いてあるドイツ語と英語と日本語が並ぶ「簡単指差し会話本」に興味があるようだったので見せてあげる。
ユニークなイラストと、それを示す単語と、超簡単な独文と英文。彼らからすれば、3歳児なみの内容なんだろうな。
日本人は普段どんな酒を飲むのか?と、お酒の種類が書かれたページを見ながら彼が問うてくる。
「1番ポピュラーなのはビール。たぶん、2番目はワイン。次はショーチュー、それとサケ・・・」
彼は、日本人が日本酒と焼酎ばかり飲んでいると思っていたのだろうか?驚いたように目を丸くしている。
そこへオーナーのラルフさんもやってきた。オーストリア人の彼から受け取った「簡単指差し会話本」を愉しそうにペラペラとめくっていたが、ふと、あるページで手を止めて一文を指し 「この文章は違っている」と言う。ラルフさんが指さしたページにはこう書かれていた。
この近くのいいレストランを教えて頂けますか?
Konne Sie hier in der Nahe eu rutes Restaurant empfehlen?
Can you suggest a nice restaurant near here?
本当?こんな基本的な会話が間違っているとは、やはり日本の英語はヘンなのか?狼狽する我々を十分に確認したあと、ラルフさんはウインクしながら嬉しそうに言った。
「It's here!」
こういう粋なジョークは日本人には出来んなあ。仮に言葉に発したとしてもサマになるまい。